刻一刻国医

とある医学部生のブログ

自分の感覚のおかしなところ

なんとなく挙げてみる。

  • ハイソックスが痛くて履けない→中学校の制服で克服
  • 洋服のタグが痛い
  • タートルネックやマフラーなどの首を覆うものが苦しい
  • ネックレスも苦しい
  • プールの更衣室の床が気持ち悪い
  • 香水の匂いで気持ちが悪くなる
  • 車や特急電車が臭くて気持ちが悪くなる
  • 乗り物酔いがひどく、ブランコや遊園地のアトラクションでも酔う
  • 不織布マスクの臭いが嫌でつけられない→高校の終わり頃に克服
  • 集合体恐怖症
  • 暑さ・寒さに弱い
  • ニュースに引きずられやすい
  • トイレの換気扇や消臭の音が怖く、未だにトイレに行っても入れないことがある
  • 特に原因もないのに体のあちこち(頭、お腹、手足など)がよく痛む
  • 特に原因もないのに吐き気がする

私は俗にいう「繊細さん」という範疇に入るのだろうと思う。

だからなんだというわけではないが、感覚の過敏性のようなものはどこに由来するのかいつか医学で解明したい。

人と関わるのが苦手

私は人と関わるのが苦手である。

 

人と話すことは好きなのである。初対面の人とでもダーッと話すことはできる。

ただ、後になって「傷つけてしまったのではないか」「言ってはいけないことをいってしまったのではないか」「一方的だったのではないか」といろいろなことが気になって落ち込む。しかも、ただ気にしいなだけでなく私はおそらく頭がほんの少しいかれている。思ってはいけないこと、言ってはいけないことを言って場が白けるのを時々肌で感じる。反省する。こうして人と話すとひどく疲れる。

 

加えて私は相貌失認もちであり、人の顔を区別することができない。誰か分からないので声をかけられるのが怖い。話し相手の名前が分からない。こういったところも人付き合いへの恐怖心につながっているのだろうと思う。

 

また、人と友人関係を保つことも苦手である。関係を保つための会話をしなければならないのが苦痛である。関係を保つために思ったことが言えないという強迫観念にかられる。

 

人とうまく関わるというのがなかなか私には難しい。

スキゾイドのように人に興味がなければまだ良いのだろうと思うが、人と仲良くしたいという気持ちがあるのに人と仲良くする方法が分からない。人と仲良くするのが怖い。

 

私は数年後には接客・サービス業の範疇に含まれる仕事につくことが予想されるので、人と関わることへの苦手意識を払拭していきたいと思っている。

しかし、自分の感じ方というのはなかなか変えられないもので、生まれつき脳の構造的に人付き合いに恐怖を感じる人間と感じない人間がいるのかななどとぼんやりと考える。

 

まずは「人と関わるのが苦手」という自分を受け入れて寄り添っていきたい。

人生の転機

人生には大人になったということが自分ではっきりと分かる時期が何度かあると思う。

所謂転機というものだろうか。

 

 

私が直近で転機を迎えたのは大学に入学した年、2019年、18歳のときである。

 

大学に入学して、高校までの頃のように心の底から笑うということがほとんどなくなった。周りの人は大体みんな友達だという感覚もなくなった。

 

それまでの何もかもが楽しいような感覚が嘘のようだった。

私はそれまで比較的テンションの高い人間だったのだが、電源をオフにしたかのようにすっとテンションが下がった。

 

その数年前、私は高校に入ったばかりで藤田ニコルが18-19歳ぐらいの頃、テレビ越しに見る藤田ニコルのテンションがすっと下がった(これはあくまで主観だが)ことが私は気になっていた。勝手にうつ状態なのではないかとも思った。でも同じような変化が自分にも起きた。

 

楽しくない代わりに、それまでよりも冷静に物事を見ることはできるようになった。それまではいろいろなことが最終的には楽しいという気持ちで塗りつぶされていたのが、楽しさを取り除くと見えなかったものが見えてきた。

 

私の母の口癖である「人間死ぬときは1人だから」が脳裏に浮かんだ。

 

高校生の頃までの何もかも楽しく感じられた自分に戻りたいと思うことは多いが、少しずつ楽しくないことを受け入れられるようになってきた。

 

 

では、逆に楽しさを感じるようになった転機はいつかというと、これは小学校4年生の後半である。はっきりと覚えている。

 

それまでの私はイヤなやつだった。自己を開示することが苦手で、親や先生に言われることをそのまま自分の中に取り入れて、いつも「いい子」でいようとしていた。もしくは人見知りでモジモジしていた。

 

しかし、小学校4年生の後半あたりでふざけることが楽しくなった。というよりも元々自分が「いい子」でも「真面目な人間」でもないことに気づいたといった方が正確かもしれない。「なんでもバスケット」でふざけているときに頭の中の蓋が外れるような感覚があり、その頃から物事を本当に楽しめるようになった。

 

 

小学校4年生の後半から高校卒業まで、8年半。

今思うと思春期、青春というものだったのだろう。

このような何もかも楽しめた時期が自分にあったことに感謝している。

 

これから私がどうなっていくかは分からない。

楽しさを取り戻すかもしれないし、より一層閉じこもった性格になるかもしれない。

どちらにしても、また転機を迎えて世界の見え方が変わることが楽しみである。

オンライン授業による生活リズムの崩壊・過眠について

ここ2年、オンライン授業による生活リズムの崩壊に随分悩まされた。

 

まず、私は自分で言うのもなんだが授業は真面目に聞く方である。

 

しかし、家で朝から晩までオンライン授業を見ていると、どうしても居眠りをしてしまうことが多い。

私は椅子にじっと座っているのが苦手なので、椅子に座っているのにすぐに飽きて寝っ転がりながら授業を見だして、やがて眠りに落ちるという流れである。分かっているのに治せない。情けない。

 

うつらうつらしながら授業を聞き、授業が終わる夕方頃に本格的に起きだしてバイトにだけ行く。

 

帰宅するとまた寝る。睡眠時間14時間・・・。

 

特に冬は太陽が昇っている時間はほとんど家でオンライン授業なので、たまに日中に外出すると久しぶりの太陽の眩しさにびっくりする。そんな自堕落な生活を送っていた。

 

このように、私のような自律を苦手とする人間にとってオンライン授業は大敵である。週に数コマならまだしも医学部のように朝から晩まで週5日びっしり埋まっていると特に。

 

しかし、新型コロナウイルスの感染拡大は長引き、加えて医学部は医師が教えているという特殊性ゆえなかなか対面授業に戻らない。

 

生活リズムの崩壊は増悪と緩解を繰り返しているが、過眠についてはすっかり定着してしまった。

 

あと半年後には臨床実習により否が応でも毎日大学(というか病院)に通わなければならなくなる。ここ2年、平均すると毎日10時間近く寝ていた私が適応できるのか大変心配である。

 

おそらく私と同じようにオンライン授業やテレワークによる生活リズムの崩壊に悩まされている人は世界中にたくさんいるだろう。1度生活リズムが崩壊するとなかなか治すことは難しく、精神面にも肉体面にも多大なる悪影響が及ぼされる。もっと社会が真剣に考えなければならない問題なのではないかと感じている。

大学生の塾バイト 個別塾vs集団塾

大学生の王道バイトといえば塾講師だろう。

 

今回は個別(家庭教師を含む)と集団のどちらも経験した自分が、個別塾と集団塾のバイトを比較してみたいと思う。私の独断と偏見に基づいた意見であることをご容赦いただきたい。

 

待遇

待遇は塾と学歴にもよるので何とも言えない。

個別塾<家庭教師=集団塾

一般的にはこのような傾向かと思う。

 

生徒の学力

これも様々だが、個別塾や家庭教師と比べて集団塾の方が勉強ができる生徒が多いだろう。もっと正確にいうと集団塾には「勉強を全くやったことがない」「勉強が非常に苦手である」といった生徒がほとんどいない。

 

勉強が苦手な生徒に勉強を教えるのが苦手な人は集団塾の方が向いているだろう。

 

予習

集団塾は板書案を作らなければならないので必須。予習時間の給料は塾によって様々だが100%出るところはほとんどない。

 

個別塾は予習がいらない、というよりも生徒のその日のニーズに応えていく形なので予習不可能であることが多い。家庭教師も同じ。

 

予習をしたくない人には個別塾や家庭教師がおすすめである。

 

講師に求められる学力

学習塾の予習は否定的に捉えられることが多いが、逆にいうと予習さえしていけば苦手な分野でも教えられるのである。

集団塾は質問対応が個別塾より少なく扱う単元も決まっているので、講師の理解度があまり高くなくても(講師の学力が低くても)教えられる。

 

それに対して、個別塾と家庭教師は(どの角度から飛んでくるか分からない)質問の対応が中心で、扱う単元が予め決まっていないことも多いので、講師にはより深い理解と高い学力が求められる。

 

勉強にそこまで自信がない、小中高の勉強を忘れてしまっている人には集団塾の講師がおすすめである。

 

まとめ

このように個別塾のバイトと集団塾のバイトはどちらにもメリットとデメリットがある。自分に合っているところを見つけると良い。

 

他に勉強を教えなくていい塾バイト「チューター」があるが、これについては今後気が向いたら書こうと思う。

部屋を片付けることができない

私は幼少の頃から片付けが非常に苦手である。

 

「1歳ぐらいの頃に興味の対象が移るとそれまで遊んでいたものをボンッと落として次にいっていたのが印象的だった」

という母の証言がある。

 

要するにやりっぱなしの人間なのである。

 

どうがんばってもやったことの後片付けに意識が回らない。

 

家の部屋も、小学校のお道具箱も、中高のロッカーも、どんな空間であっても私は整理整頓するということがまったくできないので、最近はもはや諦めている。

 

私の今の部屋の様子を描写すると、床が30%ぐらいしか見えない。机の上にスペースなし。服と本とゴミと食器が散乱。一昨日ぐらいにカップラーメンの残り汁と具をこぼした後ざっと拭いて跡が残っている状態で放置(きたねー)。

 

こんな私だが、生活が本格的に崩壊しないために私が気をつけていることが1つある。それはたまに「大片付け大会」を開くということだ。

 

「たまに」と書いたが、頻度は決まっていない。気の向いたとき、汚さが自分の我慢の限界に達したときにする。

 

一昨日カップラーメンをこぼした辺りから今の部屋の状態を不快に感じ始めているので、そろそろ大片付け大会を開く頃合いである。今晩あたりにやるのではないか。

 

私は先ほど興味の対象が次のことに移ると、前にやっていたことの後片付けを忘れてしまうと書いた。逆にいうと片付けに意識が向くと、とことん片付けることができるのだ。そのため、時々片付けに意識を向けることでなんとか私は人の生活を維持している。

 

整理整頓がまったくできないことは私のコンプレックスの1つである。

しかし、できないことは仕方がない。たまに片付けて人の生活の下限をクリアすれば良い。そう思うことにしている。

私の悩み: ネット依存症

楽しくないのにネットがやめられない

私は小学生の頃からのネット依存症もちである。

特に大学生になってからはひどい。

 

少しでも脳内に隙間があると癖で

yahoo.co.jp

5ch.net/〇〇

ff5ch.syoboi.jp

などとブラウザの窓に入力してしまう。

そして悲しいニュースを見て凹む。

 

問題なのは、見ていて楽しくないのに見ているということである。

 

私は芸能にもスポーツにも疎いのに、ニュースサイトや掲示板を癖で開いてしまい、よく知らない芸能人やスポーツ選手についての他の人のコメントを延々と見ている。

 

せめて見ていて楽しい気持ちになれるものを見たいものである。

 

しかし、やや精神的に不調気味の私にとって「楽しむ」ということはとてもハードルが高いのである。

 

楽しい気持ちになれそうなものを見るときはどうしても身構えてしまうし、何かを楽しんだ後は精神的にどっと疲れる。

動画配信サービスのウォッチリストには面白そうであるがゆえに未視聴の映画が大量に入っている。

 

こうして、毒にも薬にもならない興味のないサイトを延々と見続けてしまうのである。

 

ここ数年、楽しむ力がどうにも湧いてこない。ネット依存の根源はこのことにあると思うのだが、どうすればいいのか分からない・・・

 

ブログを再開したのは、ネット依存を改善するためというのが1つにある。ブログもネットではないかと言われたらその通りなのだが、興味のないニュースを延々と見ているよりはマシだと思うので・・・。

 

追記: ネットには救われてもいる

私の人生はネットに救われたというのも事実だ。

 

私のように人見知りな人間はネットがなかったらもっと辛い人生だっただろうとも思う。

 

ネットの世界には私が悩んでいた時に相談にのってくれた匿名の人がたくさんいる。様々なブログが私を助けてくれた。

 

ネットと楽しく付き合っていきたいものだ。