刻一刻国医

とある医学部生のブログ

なんとなく医学部に入ったことでの悩み・医学部の志望動機について

なんとなく医学部に入った

正直に白状すると、私はなんとなく医学部に入った。

特に医師になろうと思ったきっかけはない。家族に医師がいるわけでもなく、医師になる必要もない。それ以前に医学部に入った時点では医師になろう!という気持ちもあまりなかった。

自分の理数系の能力に限界を感じていたので、もし浪人していたら文転して経済学部を第一志望にしていたかもしれない。

 

金銭的なことから私大医学部が受けられなかったということもあり、受験のときは医学部医学科、経済学部、工学部の情報系という3系統の学科を受けて、合格したところに行くことにしていた。それで医学部に合格したので、進学した。

なぜ医学部に入ったのか

上では「なんとなく」と書いたが、一応理由らしきものはある。

 

子供の頃からなぜかはよく分からないが病気にすごく興味があった。たまごクラブについてくる「家庭の医学」のような本を熟読していて、闘病記や闘病ドキュメンタリーもよく見ていた。

小学生のときに白血病や骨肉腫のような小児がんは多剤併用療法の発達でもはや不治の病ではないということを知り、特に小児がんに強い興味をもった。当時手に入る範囲の小児がんの本はほとんど読んだと思う。

だからその頃からなんとなく医学部に入ろうかなとは思っていた。救命病棟24時が好きだったということもある。

 

以来ずっと病気には興味があったがどうも医師というものと自分が結びつかず、コンピューターなど他に興味があるものもあったので中高時代は医学部に行こう!という気持ちはあまり強くなかった。

 

周りの医学部志望者と自分のギャップ(後述)のようなものも感じていた。

 

大学受験のときはどの学部を受けるかとても迷った。高3の秋になっても決められていなかった。

しかし、コンピューターなど医学以外の分野については何歳からでもどのような手段でも勉強できるけれども、医学を勉強できるのはきっと今だけだなと思い医学部を受験することを決めた。センター試験の点数が思ったよりも良かったということも大きかった。

 

今でも医学部に進学したことを後悔する気持ちはある。地元の経済学部に行っておけば良かったなと思う日も年間50日以上ある。

しかし、きっと子供の頃の私に医学部に進学したことを伝えたら喜んでくれるだろう。

 

周りの崇高な理想をもった医学部生とのギャップ

医学部生というのは崇高な理想や明確な目標をもっていることが多い。

「子供の頃に父が〇〇病になりました。同じ病気で苦しむ人を救いたいと思い、医師になりました。」

「私は将来心臓血管外科医として世界中で活躍する医師になりたいです。」

 

でも私には特に理想もなければ目標もない。

私のモットーは「来年の事を言えば鬼が笑う」であり、特に未来について考えていることはない。高校時代に友達にお前は若くして急死しそうだと言われたので、そうならなければいいなというだけである。

 

医学部の志望動機では身近な人の病気が使われることがとても多い。

しかし、私は祖父が亡くなったときも「医師として祖父のような人を救うんだ」というようにはどうしても思えなかった。人を救うということがあまりしっくり来ない。

 

こんな私は人間失格、医学部失格、医師失格なのではないかとかなり悩んでいた。今も少し悩んでいる。

 

しかし、最近ではあまり他人と比べずに自分は自分でテキトーにやろうというふうに思えるようになった。みんなの崇高な理想や目標の間にすっと入り込む感じでやっていきたい。自分に嘘をついて崇高な理想を唱えていても仕方がないし、どうやったって私はただのテキトーなしゃべり好きなのだから。

 

これから私がどうなるかは分からないが(もしかすると医学部を卒業できないかもしれないが)、もし同じように悩んでいる人や医学部を受験するか迷っている人の参考になったらうれしい。

2022年度の目標は「人への慣れ」を取り戻すこと

このブログでは何度も書いているが、私は東京の人混みで生まれ育った。

以前は人に酔うという言葉の意味が分からなかった。満員電車に毎日押し込められて通学していた。ハロウィーンの日の渋谷も平気で歩けた。

 

そんな私だが、地方都市での半引きこもり大学生活3年間ですっかり人混みが苦手になってしまった。人がたくさんいる場所にいると胸の辺りがざわざわするのである。

 

大学近くの大型ショッピングモールもめったに行くことができず、食料品以外は大抵ネットで買う。東京に帰省し駅に降り立つと動悸がする。

 

「人への慣れ」というのは筋力のようなものなのだと思う。

動かないと筋力が落ちてしまうのと同じように、人と接していないと、人と接することに対する耐性はどんどん下がってしまう。

そうしてどんどん悪循環に入っていって、やがて人が怖くて何もできなくなる。

 

コロナが流行し、人のいる場所に行かなくなり、人が怖くなってしまった人は私以外にもたくさんいるだろう。

 

ここ2年間は人を避けることが是とされていたが、そろそろコロナとともに人ともに過ごしていくという方向性に変わっていくと思われる。

 

そこで、2022年度は人に慣れることを目標として過ごしていきたい。

引きこもらない。仲良くしたいと思った人には自分から声をかける。多少対人関係で失敗しても凹まないようにする。長らく行っていない新宿、渋谷、原宿にも遊びに行く。

 

とはいっても筋トレ初心者がいきなり重すぎるダンベルを使っても怪我をするだけなので、焦らずに少しずつ。少しずつ。

長いこと、はてブを見ていない

私は1年半ぐらい前までよくはてブを見ていたのだが、あることがきっかけではてブを見ることができなくなった。(結果、ネット掲示板にハマってしまう・・・。)

 

上位ホッテントリ記事に私の幼馴染の写真が突然出てきたのだ。

 

その幼馴染とは小学生以来の友人だが、ただの「幼馴染」という言葉からは溢れてしまうような複雑な気持ちを私は抱いている。

平たくいえばライバルということだ。

 

その幼馴染は高校〜大学あたりでプチ有名人となり、たまにネットなどで見かけることはあった。

 

しかし、幼馴染の名前を冠していない記事に不意打ちで出てくるのは初めてだった。

 

幼馴染の活躍が嬉しくないわけではない。しかし、2歩進んで3歩戻るような大学生活を送っている自分とどうしても比べてしまう。幼馴染がきれいなスカートを履いてにっこり笑っている写真を見て、悔しい、嫉妬、そういった濁った気持ちが自分の心の中に広がった。

 

それ以来怖くなって、はてブが見られなくなった。

本当に見たくないのは、このように他人と自分を比較してしまう自分の心の中なのかもしれないが。

4年生になる

久しぶりにこのブログの存在を思い出したので、ここ3年の医学科生活を振り返ってみようと思う。

1年前期

いろいろ部活(医学部の運動部、全学部サークルなど)に入って頑張っていた。バイトも始めた。

医学研究をしたいから人一倍勉強をがんばろうと思ってはいたが行動は伴っていなかった。テストはそれなり(上から4分の1ぐらい)の点数をとれていた。

友達もそれなりに増えたが、小中高のような本音で付き合える友達はあまりできなくて悩んでいた。何よりノリが合わないぞと感じていた。6月に地元のある友達に裏切られたと感じた出来事があり、地元の友達に対しても失望し落ち込んだ。

全体的にはがんばっていた。しかし、7月に親族が亡くなる、知人の自殺未遂の場面に遭遇する、大学での人間関係に悩むという3つの出来事が重なり、そこからメンタルがどんどん崩壊していくこととなった・・・。

1年夏休み

大顰蹙を買いながら(申し訳ございません)バイトを2ヶ月休んだ。

1週間ほど海外に行き、実家に帰って地元の友達と遊びつつダラダラし、実習に行き、免許合宿に行った。コロナ禍の今振り返るとなかなか充実した夏休みだったが、免許合宿のあたりで精神的に崩壊してしまい、当時は充実した夏休みだなんて到底思えなかった。

1年のときは風呂トイレ共同の賄い付き下宿に住んでいて、免許合宿も大学の友達3人+初対面の1人の雑魚寝部屋だったのだが、どうやら私は集団生活が苦手なようだ。

今振り返ると環境の変化・集団生活・7月のいろいろな辛い出来事のトリプルパンチで体調を崩したと分かるが、当時はそのように冷静に分析することはできなかった。まずは声の出しにくさから始まり、だんだん手の痺れ、動悸、頻尿、焦燥感など様々な症状を自覚するようになった。そのような症状によって自分は◯◯病なのではないか、△△病なのではないかというような不安にも苛まれるようになり、日常生活が手につかなくなった。免許合宿中、現地の診療所に行って心電図をとってもらったこともあった。運転免許の学科試験の勉強もできる状況になく、ギリギリだったが、テスト強さを発揮しなんとか運転免許はとれた。

このような調子でボロボロだった。免許合宿から帰ってきた後は病院依存症となり、地元でも大学の近くでも様々な科の様々な診療所に行きまくった。

1年後期

ということでボロボロなまま1年後期を迎えた。病院依存症は治らないまま。

部活はやる気を完全に失い、すべての部活で幽霊部員になった。アルバイトはなんとか続けていた。

この辺りから大学の友達との人間関係を維持するのが面倒になり、大学の友達ともほとんど話さなくなり、昼は家に帰っていた。

家でずーっと昔のお笑い番組をぼーっと眺めていた。

授業に出席はしていて課題も出していたが、勉強はまったく手につかなかった。

その結果、神経解剖学で追試にかかった。おまけに生物学の試験の順位も下から15%ぐらいでボロボロだった。他の科目は奇跡的に受かっていた。

このような状態ではあったが、運に愛され何とか進級を決めた。

後期の後半に差し掛かったあたりでさすがにこのままではヤバいと思い、精神科を受診しようと思ったが初診は3ヶ月以上待ちとのことで断念した。代わりに大学の保健室のようなところで精神科の先生に相談した。詳しい内容は忘れたが、部活でもやったらいいんじゃない?と言われた。

1年春休み

と、ボロボロだった私だが、年が明けたあたりから徐々に精神が回復していった。

そこで、(精神科の先生の助言の通りに)新しい部活に入った。その部活の同期と仲良くなり、春休みはスキーをしまくった。高校の友達と旅行にも行き、なんだかんだいって充実した春休みを過ごした。

おまけにそれまでリア充に対して呪詛を唱えていた私だが、リア充になってしまった。理解のある彼くんというやつだと思う。感謝してもしきれない。

そうこうしているうちにダイヤモンド・プリンセス号がやって来て、そこからあっという間に緊急事態宣言が出て、コロナ時代が始まった。

2年前期

コロナでしばらく休校期間があり、その後オンライン授業が始まった。テストがなくなった科目も多く、まったりと過ごした。

成績はまぁ普通ぐらいだった。

2年夏休み

解剖学実習の日程変更により夏休みが短くなった。解剖学以外の実習はなくなった。

おまけにコロナもあり、短期間の帰省と県内でのちょっとした遠出以外は特に何もできなかったが、それなりに充実した夏休みをを過ごした。

夏休みに、バイトをよりコロナ感染リスクが低そうなものに変えた。その移行期に2つのバイトが重なり、忙しすぎてまた発狂してしまったが(私は暑さに弱いのかもしれない)、「理解のある彼くん」の支えもあり、解剖学実習が始まる頃には多少良くなった。

2年解剖学実習

今思えばもっと予習をすればよかった。班内であまりうまくコミュニケーションがとれなかったことも反省点である。

顔面の神経や血管は本当に剖出が難しかった。

私は家族や自分を躊躇なく献体できるだろうかと考え、献体してくださった方には本当に頭が下がる思いだった。

ちなみにテストは片方が60点台(60点以上が合格)、もう片方が追試→追試合格とかなりギリギリだった。

私は解剖学が本当に苦手で、勉強していてまったく面白いとも思えず、テストの点数も悲惨だった。3年間で勉強面ではこの頃が1番辛かった。

2年後期

解剖学実習以外はテストらしいテストもなく楽だった。

バイト漬け生活、コロナ自粛、特別給付金10万円によりお金に余裕ができたので、車を買った。ほぼペーパードライバーの状態でMT車を買ってしまったので乗れるようになるか非常に不安だったが、今ではあちこち乗り回している。ちなみに納車の日が追試と重なったために、タイヤの関係で陸送納車してもらうことになった。数万円の痛すぎる出費だった。

2年春休み

実習がなくなり、加えて授業日程が変更になったのでとても春休みが長かった。

車を買ったために金欠になり、さらにコロナでどこにも行けなかったので、バイトをしまくった。バイトの入れすぎでまた病んだが、「理解のある彼くん」の支えのおかげで回復した。

猛烈バイト生活によりお金に余裕ができたので、バイトの合間にスキーや小旅行にも行った。長すぎた2年春休みもなんだかんだいって充実していた。

3年前期

バイトを増やしすぎたことで生活と精神に支障をきたしていたので、バイトの整理をして丁度よい忙しさになった。

大学の授業もオンライン中心ではあるがコロナ前とほぼ同じ水準で行われるようになりテストも全科目あったので、それなりにきちんと学習できたと思う。

テストの結果はほとんどの科目が7割ぐらいで渋めの仕上がりだったが、病理はとても良くできた。

3年夏休み

コロナの感染者数が多かったので、バイト、帰省、旅行などをしつつ控えめに過ごした。地元の友達が大学近くの自分の家に来てくれた。

比較的安定したメンタルで過ごすことができた。

3年後期

後期の前半は対面の授業が多く生活リズムが安定していて精神面も良い状態で過ごすことができた。

後期の後半はオンラインの授業が増え、昼夜逆転気味(というよりも夕方〜夜の1日数時間しか起きられない)になり生活リズムが崩壊した。その結果、精神状態も悪化し、春休みの現在もそれを引きずっている。

また、3年後期から臨床の授業が始まった。

私はもともと基礎に近い研究志望だったが、臨床科目の方が授業を聞いていておもしろく、テストの点数もとりやすい。臨床科目が中心になってからぐんと成績が上がった。総合試験の順位もひと桁と今までで最高に良く、完全に調子にのっている。

 

自分の医学部3年間を振り返ってみた。

医学部に馴染めているとはいえない私だが、なんとかここまで進級することができた。これには「理解のある彼くん」の存在が大きいと感じている。

4年生も無理せずに自分のペースでやっていこうと思う。欲を言うならば友達を少しでも増やしたい。

医学研究者を目指していたが動物実験がツラい

私はもともと医学研究者になりたかった。

医学部入学時の面接でもそんなようなことを言ったと思う。

 

しかし、学年が上がってきて医学研究者の具体像が見えてくると、その夢が揺らいで来た。その理由の1つが動物実験だ。

 

入学前に医学研究に動物実験が必須であることをはっきりと認識していなかったとは甘いとしか言いようがないが、私はもともと見込みが甘く計画性がなくテキトーな人間なのだ。残念ながら。

 

私は実験用ラットにどうしても同情して悲しくなってしまうのだ。

それはラットを死なせるときだけではない。ラットが恐怖で失禁したり怯えたりしているところを見ると、「辛いだろうな」と思い気分が落ち込んでしまうのだ。

 

現代医学が動物実験と実験動物の犠牲のもと成り立っていることは重々理解している。

そもそも私たち人間は他の動物を食べることで生きている。都市化は他の動物の迫害を伴う。ヒトのような生物は他の生物の生を奪うことでしか生きられない罪深い存在なのだ。

 

でも、どうしても動物実験に慣れることができない。どうしても気分が落ち込み、ひどく悲しくなる。この悲しさとともに医学研究を一生続けていく自信がない。

 

「ラットに対して私ほど感情移入してしまわない人が医学研究を行えばいいのではないか。自分が精神的に深く落ち込んでしまうぐらいなら目を背けてもいいのではないか。」

「私は(将来)医療に携わる者としてその基礎である動物実験から逃げてはいけないのではないか。そもそも私がやらなければ他の人がやるだけだ。研究に携わりたいのであれば、そんな甘いことを言っていてどうする。」

この2つの気持ちが交錯している。まだ、自分の中で結論は出ていない。

 

もともと私は他人の感情に引きずられやすい人間だ。周りの人が悲しそうにしていると自分も悲しくなる。俗に言う「繊細さん」というものなのだろうと思っている。

しかし、医師は様々な人の感情を受け入れなければならない仕事だ。

医学研究(と動物実験)をせずとも、このような仕事が自分に務まるだろうかという悩みもある。

 

医学部は6年もあるのでいろいろと悩んでしまう。早く働き始めたい。

私の夏はまだ終わらない、そう自動車運転免許を取るまでは

今週のお題「夏を振り返る」

都市、郊外関係なく地方に住むときにあった方がいいのが自動車である。

 

私の地元は都会なので、地元の友達は取っていない・その予定もない人も多い。

 

しかし私の住む地方都市ではそういうわけにはいかない。車がない家はないどころか車は1人1台、そんなところなので自動車の運転の免許証はそこに住む免許証でもあるように感じる。

 

というわけで、私がこの夏になんとしてもやらねばならんこと、それは自動車免許の取得なのである。

 

父親譲りの不器用さと空間把握能力の無さ(ちなみに母親からは時間把握能力の無さを譲り受けた、うへーこんな奴に手術してもらいたくねー!!)により大苦戦の予感だが、何とか取得して無事に夏を終えたい。

医学部をやめることをやめた(n回目)

実のところ、医学部に入った次の日ぐらいからやめたい、やめたい、やめたい。と思っている。

 

Googleと共に育ってきた現代っ子の私は、そういうときすぐにGoogleで検索する。

「医学部 退学」

「大学 中退」

「医学部 中退 その後」

 

今日もそうだった。

私はすごく疲れていた。そこで、些細な思い通りにならない出来事が起きた。

その刹那、医学部やめたい発作が起きた。

 

医学部、やめたい、やめたい、やめたい。

医学部をやめなければ病気になってしまう。というか医学部に苦しめられて病気になりたい。それを口実に医学部をやめたい。

医学部をやめることしか考えられない!!!!!

 

OK, Google「医学部 やめる」

 

すると、とある方の日記が検索でヒットした。

 

あるところまではほのぼのした学生の日記なのだ。そこから少し空白の期間。

急に日記が政治的な話題、宗教の話題、その方がやっているビジネスの話題だらけになる。(この頃大学を中退されたと思われる)

また空白を挟んで、その方が精神疾患を患っていらっしゃることをカミングアウトされる。

その後は政治的な話題(とその方の壮大な野望の話)と、働けない・うまく生きられないという苦しい気持ちの吐露が繰り返される。

 

あまりにもリアルな大学中退者の人生の記録、苦しみの記録だった。

 

その日記を読んで、何だかすっと医学部やめたい発作が収まった。

 

その方にとっておそらく精神疾患になって医学部をやめるということは青天の霹靂だったに違いない。無論私のようにそのような末路を心の片隅で望んでいたわけもない。

 

うまく言葉にできないが、私はなんでこんな小さな苦しみに囚われて、大きな苦しみに向かっていこうとしているのだろう。そんな風に思った。

 

もちろん大学を中退したあと幸せに生きている人もたくさんいることは承知している。しかし、まだ大学を中退しなくてもいいのではないか。

 

というわけで、何とか後期も踏ん張っていきたい。

 

ちなみに、前期は単位を1つも落とさなかった。やったね。